那須野の旅人

旅の行く手にはどんな世界が待っているのでしょうか・・・

芭蕉も立ち寄った白河関・・・・・奥の細道十章目

              みちのくと近江をつなぐ東山道古代の関跡
前々記事で福島県境の簑沢彼岸花の里を載せましたが、そこからほど近くに白河関跡があるので
久しぶりに訪ねてみた。 簑沢からは峠を一つ越した位置にあり、 途中かなり寂しい場所も通るので
往時の旅人は苦労したことでしょう。現在ですらそう感じるのですから古くはどうだったか・・・
この記事はボクの記録でもあり非常に長いのでお付き合いしていただくのも恐縮です。お先へどうぞ。

古歌にも多く詠まれている白河の関は奈良時代に造営されたようで陸奥への通行を厳しく取締まって
いた。それが中世になってからなぜか閉ざされたようです。松尾芭蕉の奥の細道紀行の際にはすでに
無かったようで、芭蕉も古関関跡をはっきり確認できなかったようだ。ここでは句も詠まれていない


芭蕉「奥の細道」経路

                        芭蕉と曽良の像
この像は古い由緒あるものではなく平成元年に「おくのほそ道」紀行300年を記念して建てられた師弟の
像で、台座には次の須賀川で詠んだ芭蕉の句と、白河関で詠んだ曽良の句が刻まれている

芭蕉と曽良の像

東山道や奥州カ街道の昔
                       芭蕉と白河関跡
芭蕉は黒羽の浄法寺家で奥の細道中最も長く滞在し、その後雲巌寺から那須の殺生石を訪ずれ、九尾
の狐伝説の場を確かめている。その後上図のように芦野に戻り旧東山道から白河関跡を目指した


白河の関跡

元禄2年当時の白河藩主は松平(奥平家系統)忠弘であった。現在に残る関跡などはその後白河藩主と
なり老中にまで昇りつめた名君松平定信が調査して決定したものであり、芭蕉が訪ずれた忠弘の時代は
ハッキリした場所が指定されてなかったので芭蕉も折角やって来たのにガッカリしたらしく、ここでは
句を詠んでいない。曽良だけが 卯の花を かざしに 関の晴れ着かな と詠んでいる


古関跡の碑

                      古代関所の役割
古代律令制における白河の関も同様で公民を戸籍に登録して勝手な移動を規制していた。それにより
全国的浮浪の阻止、中央で発生した謀反の関係者の逃亡の阻止、政府に不都合な情報や実行者による
地方への漏れ等を阻止する情報統制の役割を果たしたと考えられている。故に関の構造は厳重だった


                        現白河市旗宿にある白河関跡の防塁山

防塁山

 古代白河関跡の発掘は昭和34年から38年にかけて行われ、現在旗宿の地が松平定信が定めた
 白河関跡であることが実証された。 防御土塁や館跡などがあるが今回は土塁周辺の風景から

                     下のサムネイルにマウスオンです
丘の中心には役人が常駐した頑丈な館があり、周りはこうした土塁で防御れていた

                            現在の東山道
中世までは近江から陸奥宮城の多賀城まで重要な官道だった東山道も 旧奥州街道と共に明治になると
すっかり衰え、 今では新しい街道が建設されて奥州街道も東山道も294号国道に吸収され白河に通じて
いる。道の駅などもできて、その近くから白河方面に抜ける旧東山道はかっては義経や芭蕉、伊達正宗
の南下、戊辰戦争の官軍が利用したという重要性が失われ車の通行もあまり多くない。それだけに彼岸
花の里のような長閑な風景がいまだに残されている。


今の東山道


                芭蕉と曽良は幕府の隠密だったとの俗説
                   奥の細道の旅は主に仙台藩の内情探索だった?

        芭蕉と曽良の野行き
                                      那須野を行く主従 Google フリー画像より

これはあくまで俗説であって、現代のようにPCによるデータも写真・ビデオの記録もない時代ですから文献
などに少しでも疑問点があると、自由な発想で興味本位に説を唱えることができる訳です。
無責任のようでも、それはやはり面白いもので、色々と想像を発展させるのは楽しい事に違いありません。

先ず隠密だったと思われる根拠としては
第1に・・・奥の細道の膨大な距離です。全行程600里2400kmにも及ぶ。「奥の細道」本文のある章節では
一日に50㎞以上も歩いているようで、ある区間は馬を利用し、足も丈夫であったにせよ、芭蕉は当時の
年齢で45歳、現代なら70歳代です。曽良は当時37歳くらいで今なら50代です。曽良は若いので平気だった
と思われるが70代での芭蕉が未開発の当時の街道を半年にわたって辿るというのは常人では考えられず、
たとえば那須野の通過などは並大抵のことではなかったでしょう。当時の那須地方は人も住めない荒野で
山賊が横行し、熊や野犬等が人を襲う危険極まりない地域でした。それなのに道に迷ったとの記述はある
がそうした危険に遭遇したという記述は全くない。たった二人での野行きがどんなに厳しいものか、 その
心情を述べた記事も皆無です。これは芭蕉の出生地が伊賀であり幼少の頃から忍者のような鍛錬を重ね
ていたからで、俳諧師であっても身体が強健で幕府の要人もそれを知っていたので依頼した。

第2に・・・
旅の資金である。 当時の俳壇で芭蕉はかなり有名で地方に弟子が多かったのは黒羽城家老の浄法寺家
との交流でも分かるが、主に関東周辺であり宿を借してくれるような知人は陸奥や北陸には少なく、 野宿
したという記述もないので、ちゃんとした旅籠に宿泊していたらしい。かなりの現金を所持していたと思われ
一介の俳諧師にそうした資金があったのだろうかという疑問、あくまでも推察である。

第3に・・・
芭蕉は 松島探訪の時仙台城を訪れているが、記録ではその際に大手門から入城したらしい。
通常大手門から入るのは藩の要職にある者や他藩の重役以上、勿論幕府の使者などであって、一般人の
芭蕉が大手門より招じ入れられた裏には幕府からのそれ相応の密書を託されていたのであろうとの説で、
当時の江戸幕府は日光東照宮の改築で多大な資金が必要で、仙台伊達家に多額の寄付金を要求しして
いた事から、伊達家において不満が溜まり不穏な動きがあるとの噂があり、芭蕉に何気なく城下や城内の
様子を探らせるため密偵であると悟られないなんらかの書状を持たせたのであろう。というもの・・・

第4に・・・
芭蕉の奥の細道に随行した弟子の曽良についてである。
彼の存在は謎が多く未だ詳しくは解明されていないが、只者ではなく最後まで芭蕉を守りぬいている。
単なる俳諧師とは思えず、その文献出所は不明だが、 奥の細道から帰った後幕府の役人に登用されて
いるという。それも諸国の動静を監視する役職だったというから象徴的である。本当だろうか?

長くなるので 芭蕉、曽良の隠密説はこのへんで。


********************************************

                       我が家の花の最近
今頃になって大輪のダリアが開花した。3本中2本が開花したが1本は風のため根元から折れてしまった


                水戸へ行った後発見したコルチカムが咲きそろった



  1. 2013/10/10(木) 22:15:31|
  2. 歴史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

カレンダー

09 | 2013/10 | 11
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

松ぼっくり

Author:松ぼっくり
旅、映画、カメラ、読書が趣味
ソースは「Sakuraの勉強室」からお借りしています

旬の花時計 V2

アシタカさんの作品です

最新記事

最新コメント

リンク

最新トラックバック

月別アーカイブ

RSSリンクの表示

検索フォーム

QRコード

QR